2011年 10月 21日
千住 博氏講演会 |
10月19日に佐賀県窯業技術センターの講堂で行われた、日本画家・千住 博氏の講演会に参加しました。
会場は、講演の開始時間になると満員になり、座席数250席に対し聴講者は約400名だったそうです。
千住先生は、過去には約1年の間、香蘭社さんで陶磁器の絵付けを行うため有田に滞在されています。
その時より前から何度となく有田でお仕事をされています。
近年においては、JR博多駅アートプロジェクトのアートディレクターを務められ
香蘭社さんと当社とで制作したアート陶板の検査では上有田壁画工場に来ていただきました。
そもそも先生のお父様は佐賀出身との事でした。
有田、有田焼と関係がとても深いということが講演で知ることができました。
講演は、工芸のこと、美しいということ、芸術のこと、和という世界観、有田焼のことなど
1時間半にわたり有田の人に伝えたいお話をされました。
有田は、2016年に有田焼創業400年をむかえます。
2016年をどのような形で迎えるかという事にとらわれることなく、
これから100年、200年と有田焼という芸術を受け継ぐ心のあり方をお話しされたように思えました。
以下は、当社ブログPJスタッフMさんの講演会メモです。
長文ですので、お時間があられる時にでもお読みください。(K)
・有田焼との出会い
昔、壁にぶつかったときにイスタンブールに行った。
旅をしていると、陶磁器美術館というものがあって入ってみた。
そこにはたくさんの古伊万里が展示されていた。
・グローバルとは
自分の足元を見つめること。掘り下げていくこと。
・「工芸」とは
インディオの中で1ヶ月程度生活をしたことがある。
インディオは木の実や石に穴を開けたアクセサリーを身につけている。
自然のものを身につけることで、自然と一体化していくことができる。
化粧(おしろい)は、昔は石の粉を顔に塗り付けて、自然のものを身につける行為のひとつだった。
現在の日本では本来自然に無かったものを使って生活している。
原子力を使って発電することで充分な電力が確保され、
夜という寝るしかすることが無かった時間を有効に使うことができるようになった。
しかし本当にそれでいいのか。
ファーストフード店のポテトはよく食べられているが、
あれをあげているのは油ではなくトランス脂肪酸(ショートニング)である。
油で揚げているのではなく、プラスチックでコーティングしているのと同じ状態。
プラスチックでコーティングしたものを体に取り入れると、体中に不具合が出る。
アメリカや韓国では原材料表示が義務づけられているが、日本では義務づけられていない。
そのため、人々は何もしらないまま、体に良くないものを取り込んでいる状態。
何故日本では表示されないのか。
7万4000年前(もっと前にもあるが、根拠が薄いため紹介できない)の地層から
貝殻や石をネックレスにしたものが発見された。
7万4000年前は人類ではなく、原人だった。
工芸は、人間が誕生する前から存在していたもの。
造形物があったとして、ステンレス(人工物)でできていると聞くとがっかりしてしまう。
それは工芸では無い、工業製品である、と思ってしまう。
・「美」とは、「きれい」とは
「美」=「羊」+「大きい」 古代中国で生まれた漢字
羊は中国大陸の遊牧民にとって、食べることができる、乳を飲むことができる、
皮を身につけることができる、側にいて癒される、という存在だったのではないか。
「美」とは豊かであること。
分かりやすく食べ物で考えると「おいしい」とは「美しい」「味」と書く。
それはどういう事かと言うと、おいしい食べ物を食べると心が豊かになる。
「生きていて良かった!」という気持ちになり、生きて行く元気、勇気が湧いてくる。
美しいということは、生きているということ。
花を見て「美しい」という気持ちになるのは何故か。
花が精一杯咲き誇っているからである。その生きている姿に感動するからである。
美しい、という言葉とは別に「きれい」という言葉がある。
よく使われる言葉では「部屋を綺麗に片付けなさい」というものがある。
綺麗とは、そぎ落として片付けることである。
秩序、序列を与えることである。
生きることは良いことばかりでは無い。
人は良い面、悪い面、様々な面を持っている。人は混沌としている。
美しい絵というものは、それが全て出ているものである。
良い絵というものは、それに秩序、序列を与えて「整理」したもののことである。
(視線の順番等)
美しいということは、生きること、混沌。
きれいということは、片付いて整理されているということ。
この二つの言葉を使い分けられると良いと思う。
・「和」とは
和風という言葉がある。明治維新の前までは「和風」という言葉は存在しなかった。
代わりに向こうのことを「南蛮」と読んでいた。
現在の人は珈琲カップのことを「南蛮茶碗」とは呼ばない。
和風という言葉について、ちょっと考え直さなければいけない気がしている。
それでは「和」とはなんなのか。
わかりやすく食べ物で説明してみると、「和風スパゲティ」というものがある。
それはスパゲティという「イタリア」のものの上に納豆という「日本」のものが乗っていたりして、
「なんだこれは」という気分になる。
しかし食べてみると美味しい。
他にはカツカレーというものがある。豚カツの始まりはカツレツで「イギリス」、カレーは「インド」のもの、
それが合わさったものがお米に乗っているという状態。
様々な国の食べ物が合わさっていて、とんでもないもののように思えるが、うまく調和している。
聖徳太子の言葉で「和をもって尊しとなす」という言葉がある。
これは様々な意見を出し合い、答えを出すことを表している。
宗教の話をすると、日本では正月には神社に行き、バレンタインがあり、仏教行事であるお盆があり、
クリスマスがあり、そして大晦日を迎える、という状態である。
これは宗教に厳しい国では殺し合いが起きるようなことであるが、日本では普通に受け入れられている。
日本には、ギリシャ人の顔をした仏像、中国人の顔をした仏像など様々な仏像がある。
これは様々な分化を受け入れてきた日本という国の性質を表している。
受け入れるだけでは無く、それに秩序を持たせ、調和させている。
言わば、混沌に秩序を持たせる芸術と同じことである。
・有田焼について
今年6月、GUCCI創設90周年アーカイブ展のプロデュースをした。
京都の金閣寺で展示会を行った。
GUCCIは世界に誇るスーパーブランドであり、またバッグ等日常に親しまれているものであるが、
普段の環境を抜け出し、展示をしたことによって
動物の皮を使った「工芸品」であるということを、世界中に再認識させることができた。
有田に住んでいる皆さんは普段から有田焼を見慣れていて、
有田焼がいかにすばらしいものであるかわかっていないのではないだろうか。
有田焼は地球の裏側イスタンブールまで伝わり、人々に大切にされている。
伝わった器をなんとかして使いたい、また、共演したいという思いからか、
金具等を取り付け、シャンデリア等の照明器具へ姿を変えているものもあった。
世界中で大切にされている、世界に誇れるすばらしい工芸品である。
器をつくり、絵を描き、火で焼く、という様々な行程を持った、混沌に秩序を持たせたものである。
一度、普段とは違った環境で有田焼を見てみると良い。
私がイスタンブールで出会った陶磁器美術館で、
たくさんの古伊万里を見たときの感動、安心感を知って欲しい。
・芸術とは、「仲良くすること」
人に何かを伝える手段
芸術とは人そのもの。人は混沌の固まり。
絵は途中で描く事が嫌になってしまうこともある。
しかし、私にとって絵を書くことは生きる事である。
生きることは、途中で嫌になったからといって、辞めることはできない。
絵を描くこともそれと同じである。
作家の村上龍氏が以前言われていたことに、水泳の話があった。
水泳で50m泳ごう、その間は足を着かないでいよう、と思い、泳ぎ始める。
泳いでいる途中はとても苦しいが、50m泳ぎきると「もう50m泳いでみよう」という気になる。
そこでターンして50m泳ぎ出すと、また苦しい。
しかし、また壁につくと「もう少し」と泳ぎ出してしまう。
それを繰り返しているうちに、いつの間にか1キロ2キロ泳いでいる。
芸術もこれと同じものである。
描いている途中はとてつもなく苦しいが、出来上がったときにまたやってみようという気持ちになっている。
作品は満足いくものばかりでは無い。
しかし、自分が考えていることをどうにか人に伝えよう、
秩序を持たせようと足掻いた姿勢が絵にあらわれ、それに人は感動する。
歌、絵、文章、様々な芸術があるが、それはすべて、なんとかして人に何かを伝えようという姿勢である。
古い巨匠が描いた絵は、何故評価されているのかわからないと思われているものもある。
形、色も汚い。しかし、絵からは「なんとかして思いを伝えたい」という気持ちが伝わってくる。
by iwao_jiki
| 2011-10-21 17:57
| ものづくり